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『アンナチュラル』久部六郎と8話が好き

この文章は、製作者の意図を探ることを目的としたものではありません。ともすれば偏見・色眼鏡とさえ呼べる、一個人の感想です。

 

いつの間にかみんな『アンナチュラル』を観て盛り上がっていたので、遅まきながらわたしも日曜日を丸ごと使って全10話を駆け抜けました。どうしてみんなもっと早くわたしを椅子に縛り付けて無理矢理にでも観せてくれなかったんですか?

久部六郎と8話があまりにも素晴らしくて我慢ならないので、そのへんについてのツイートをまとめることにしました。いつにも増してとりとめのない記事です。

 

窪田正孝演じる久部六郎は、三浪して合格した医学部を親に黙って休学し、アルバイト先の編集部からスパイとしてUDIに潜り込んでいるキャラクターです。およそ考えうる限り最悪のバイトの掛け持ちをしている気がします。

 

問題の8話にて、久部は三澄と酒を酌み交わしつつ父親との確執について吐露します。ここで興味深いのは、三澄が久部の父親に対して怒りを表明していることです。

久部は父親に「医者になるのやめた」と告げたエピソードについて、しきりに「ふざけて言っただけなのに」と主張します。ここから伺えるのは、彼が(無意識のうちに)反抗を悪として厳しく自分に禁じていること、ひいては、自分が父親に対して怒りを覚える権利があることを知らないということです。

ところが三澄は「(医者にならない)ならわたしの子供じゃない」と言い放つ彼の父親に対して「腹立つなあ。腹立つね、六郎の父」と自然に言います。自分が父親に怒ってもよいのだということを、久部はこのときはじめて知ったのだと思います。

おそらく久部は生まれたときから父親という権威に屈服し続けてきた子供でした。そんな彼に怒りを教える三澄は、まだ感情の未分化な子供が泣いているときに「痛かったね」「悲しかったね」と声をかける母親と同じです。あるいは面倒見のよい姉と同じと言ってもいいでしょう。しばしば描かれてきた「久部は三澄にとって弟ポジ」という話がここに来てガチになるわけです。最高……。

久部も三澄も血縁上の親との確執を抱えていますが、久部は怒りを持つことができないでいた一方で、三澄は「悲しむ代わりに怒ってきた」と言っているのが対照的です。序盤から顔のいい男と顔のいい女でいい絵面を作ってきたふたりですが、ふたりの構造がここに来て完璧になるわけです。悲しむ男と怒れる女、最高〜〜〜〜

 

話がそれ放題ですが、先日まで上映されていた映画『犬猿』の窪田正孝も兄という権威に抑圧されている弟を見事に演じてらして、肉親に虐げられる彼の演技が自分はべらぼうに好きなのだな……としみじみしました。

久部六郎はフィクションのキャラクターとしてあまりにも絶妙というか微妙な男で、彼の抱える屈折がこんなにも伝わってきて泣かされるのは、やはり窪田正孝の演技ありきだと思います。

推理要素のある作品において、未確定な真相を軽率に単純な構造に落とし込んでしまうキャラクターは、話をわかりやすくする一方でストレス要素でもあります。久部六郎も『アンナチュラル』においてこの役割を果たしていますが、彼の場合は然程の不快感がありません。おそらくこれはジャーナリズム精神や未熟さなどのエクスキューズが適切に用意・運用されていることと、あとやっぱり窪田正孝の緻密な演技の賜物だと思います。

窪田正孝を褒める記事になりつつありますが、『HiGH&LOW』で彼に出会ってからというもの、彼の演技があまりにも心に刺さっているのでどうしようもありません。いや本当にすごくないですか? すごいんですよ。本当に好き。

 

 

8話は「9番のご遺体(町田三郎)は何者なのか」「久部六郎の父子関係」「三澄ミコトの母子関係」「東日本大震災」「ゴミ屋敷の屋敷さん」など数多くの要素がありながらもそれらすべてが「遥かなる我が家」のサブタイトルのもとにうつくしい収束を見せる素晴らしい回でした。技巧的かつ感動的で何度観てもボロッボロ泣いてしまいます。出生家庭を失った人間が帰る場所を手に入れる話や子供が出生家庭に受け容れられる話が魂の底から好きなので、8話は本当にオーオー泣いてしまう……。この辺の総評はさんざんされていると思うのでここでは語りませんが、「ゴミ屋敷の屋敷さん」がハチャメチャに好きなので彼の話をします。

 

彼は「神倉が将棋で勝ったら妻の遺骨を引き取る」と決めています。

途方もないものと向き合わなければならないとき、人間はしばしばその選択を外部のルールに委ね、それに従います。自分では決めかねるが選ばなければならない選択肢は自明であり、それを選ぶことを自分でも期待しているが、しかしそれでも選べないという状況は、人間の身には途轍もない重荷です。だから自分の外側にルールを作り、ルールに従うという形で選択をするのです。ルールとは、人間よりも高次なものであるがゆえに、人間を縛り、同時に人間を救うものなのです。人を裁くのが人ではなく法である理由もそういうことなのではないかと思います。

こういう諦観と期待のバランスを持っているキャラクターがとても好きなので、ゴミ屋敷の屋敷さんがザクザク刺さりました。

 

 

久部六郎の話に戻りますが、彼はジャーナリストの端くれとして小金を稼いでいるにも関わらず、自分の言葉と呼べるものはおそらく持っていないのでしょう。1話で彼が口にした「法医学って死んだ人のための学問でしょ。生きてる人を治す臨床医のほうが、まだ……」*1という言葉は、8話から察するに父親の受け売りです。彼がしばしば口にするドラマティックな推理も、きわめて陳腐で空想じみたものです。

彼は自分の言葉を持たず、自分の怒りを持たず、鬱屈と燻らせたルサンチマンをインターネットの大海に投じ、三流医学部の肩書きのために編集部に拾われ、ネズミとして利用されます。彼の半生のドラマはあまりにもしょうもない。しかしそのしょうもなさこそが彼のいとおしさなのでしょう。かわいい。*2

最終話でUDIに戻ってきた彼は「法医学は未来のための仕事。いずれ自分も胸を張ってそう言えるようになりたいです」と語ります。父親の傀儡として過ごすのは、生きながらにして死んでいるようなものです。それに疲弊しつつもそこから抜け出せず無気力になっていた彼は、一度は片足を突っ込んだジャーナリズムの世界ではなく、沈黙する死体と向き合うことで、己の言葉・哲学を獲得しようと決意するのです。

 

『アンナチュラル』は死者の物語であり、遺された生者の物語でもありました。作中では何度も「食事」という行為が描かれましたが、久部の生命は「語り」を軸に描かれていたのでしょう。ハア~~~~久部六郎が好き……

 


なんだかんだ我慢できないので最後にまた8話の話をします。

9番のご遺体・町田三郎を巡るストーリーは、死者に愛と誠意を捧げ、うつくしい真実を可視化する営みの物語です。

死者は当然ながら物言わぬ骸なので、生者が決めつける真実に対しなんの反駁もできません。真実は上塗りされてゆくものなので、未来の真実は常に過去の真実に勝ります。死者の真実が生者の真実に敗北することは、死んだ時点で決定しているのです。

しかし生者は死者にまつわる記憶とともに生きてゆかねばなりません。死者の真実が生者にとって悲しくやりきれないものであったとしても、それでもその死者を愛してしまっていたのなら、その死者と繋がってしまっていたのなら、その真実はすこしでもよりよいものであったほうが、きっと救われるはずなのです。*3そしてそれは同時に、死者の矜持を救済することでもあります。沈黙する死者の真実をうつくしく幸福な形で残すことは、生者の記憶の中の死者、ひいては遺された者の未来を輝かせるための、重要な要素なのでしょう。

 

「法医学は未来のための仕事」。まさしくそのとおりです。『アンナチュラル』はほんとうに素晴らしいドラマでした。ありがとう、『アンナチュラル』。ありがとう、久部六郎。素敵なドラマを観た……。

*1:余談ですが、先の台詞は「法医学とは何か?」というこの作品が1話で視聴者に提示しておくべき重要な情報を導くための前フリでもあるわけですが、それが決して不自然なものではなく、同時に久部六郎のキャラターを立たせるものであるのも、この作品の繊細で丁寧なところです。

*2:遡って3話では、彼が医者一家の息子で三浪していること、言ってしまえば金持ちのボンボンであることが坂本誠の口から批判的に明かされます。これもまた『アンナチュラル』という作品の繊細さで、「金銭的余裕のない立場から金銭的余裕のある人間を贅沢で無理解だと非難したくなる気持ち」を一度は描写した上で久部六郎の苦悩に切り込むことで、より多くの視聴者が自然に彼の感情に寄り添えたのではないかと思います。

*3:その一方で三澄ミコトの母親のような残酷な死者もキッチリ描写しているので全体のバランス感覚がとても優れています。肯定と否定のバランス感覚が優れた作品は観ていると安心します。