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『キラキラ☆プリキュアアラモード』第25話を観て考えたこと

小学生の作文のようなタイトルですが、まったくそのとおりの内容の記事なので許してください。『キラキラ☆プリキュアアラモード』第25話を観て考えたことをつらつらと書きます。この記事は「いかにして25話を好意的に解釈し整合性を見いだすか」という趣旨のものではありませんちなみに仮題は「弔辞」でした。

 

 

はじめに表明しておきたいことがあります。

あらゆる解釈は世界に許されているので、個人の主観において解釈違いに陥ること及びそれを表明することを恐れる必要は(差別的なものでない限りは)ないとわたしは考えています。複数の解釈の乱立(これらは常に並列である)はこの世界のまったく正常な状態です

そして、創作物を鑑賞する態度にも優劣はありません。ときめいてそれでおしまいでもいいし、できる限り考察してもいい。好意以外は発信しないという意志を持っていてもいいし、悪感情を分析し発信してもいい。あらゆる感想やその表明はすべて平等な地平にあるものです

ただ、解釈内容や鑑賞態度で他者にマウンティングをすることだけは、わたしは受容できません。この前置きは、自己防衛であると同時に、これを読んでくれた人間の解釈を尊重するという意思表示でもあります。わたしのこの表明に、侵略の意図は一切ありません。

 

25話の内容と25話に至るまでの跳躍に、わたしは納得できませんでした。その理由について考えます。

第一に、描かれた琴爪ゆかりの心情が、これまでの描写を伏線なくひっくり返してしまうものであったこと。第二に、彼女がなぜそれを剣城あきらに開示したのかわからなかったこと。主にこの二点についてここでは語ります。

 

エレベーターで明かされた琴爪ゆかりの心情は、16話で提示されたテクスト(描写・情報)をひっくり返すものでした。16話で彼女は嘘をつきます。彼女は本心の中にたったひとつの嘘を織り交ぜることで、完璧にジュリオを騙したのです。

16話の特徴はその構成にあります。彼女が見せた心の柔らかい部分はジュリオを嵌めるための「演出」すなわち「意志による自己開示」で、他者に責任を求める弱さの象徴としての姉を「嘘」として否定し、「種明かし」の形を取って力強く自己肯定する強さを見せつけるのです。これは素直に解釈すれば、「種明かしの部分」が彼女の「底」ということになることでしょう。ところが25話ではこれがひっくり返り、「底の底」が明かされることとなったわけです。

 

「底の底」が彼女の中に存在するという伏線は、わたしの読解の限りでは本編内に存在していないと思います。率直な感情を述べるならば、わたしはこれを裏切りだと思いました。わたしが愛していたのは、16話の強くしなやかに生きる琴爪ゆかりだったからです。

 

果たして裏切りはいけないことなのでしょうか。これは個人的な感情の話になりますが、その答えは「場合による」だと思います。

快楽的な裏切りというものは存在します。それは「予想を裏切り期待に応える」ものだと思います。裏切りを快楽として受け取ってもらうひとつの手段として、「受け取り手の期待に応える」というものがあるのだと考えます。

25話はわたしの期待を裏切るものでした。もちろん25話が期待通りだったという人々も存在することでしょう。期待の形は人それぞれです。創作物は必ずしも受け取り手の期待に応えなくてはならないなんてことはありません。創作物に寄せられる期待とは、趣味嗜好や自己投影……つまり受け取り手それぞれのコンテクスト(人生経験・背景文脈)を孕んだ欲望なので、すべての人に応えるのはとてつもなく困難だといえるでしょう。

 

では、受け取り手を納得させるためには、受け取り手の期待に応えることが必須なのでしょうか? 当然そんなことはありません。納得に必要なのは論理と快楽です。そのいずれかもしくは両方があれば、わたしは納得できます(万人の納得についてここで述べることはしたくないため、敢えてわたしという主語を用います)。つまり、わたしにとって25話にはその両方がなかったわけです。

上述したように、わたしが快楽を得られなかったのは、25話で開示された新たな彼女がわたしの期待に沿うものではなかったからです。しかしその裏切りに論理があれば、わたしは納得できました。重ね重ねになりますが、期待と快楽は人それぞれです。だからこそ論理が必要なのです。論理ある裏切りとはなにか? 簡潔に言うと伏線です。裏切りには伏線が必要だとわたしは思います。伏線なき裏切りはトンデモに過ぎません。すくなくとも、多くの人間になんらかのメッセージを希求しようというのであれば、それはあって然るべきなのではないかと思っています。メッセージが伝わるということは、受け取り手がそれに納得するということに等しいからです。

 

これは個人的な感情ですが、わたしはこれまでの彼女のことを心から愛していました。彼女は第一印象から革命的で、16話の彼女の姿にわたしは救われました。彼女の強くしなやかな自己肯定に魂の底から焦がれ、彼女のように生きたいととめどない憧憬を抱きました。これは身勝手な願望に過ぎませんが、裏切りは前進であるべきだと思うのです。前進は(すくなくともわたしにとっては)快楽なので論理がなくとも納得できますが、後退には論理がなければ納得できません

25話および16話から25話に至るまでの彼女の心情は、わたしにとっては後退でした。16話の彼女は、出生家庭や生育環境に煩悶や寂寞を抱えながらもひとりで生きてゆける女性でした。『Go! プリンセスプリキュア』で描かれたシャットもまた出生家庭に悲劇を持つキャラクターでしたが、彼は家庭の外界でミス・シャムールという母性に触れて、母親の呪縛から脱却します(詳しくは下の記事で)。

 

mortal-morgue.hatenablog.com

 

ところが琴爪ゆかりは、そういった外界からの救済がなくとも自力で立ち上がり、優れた自己分析と共に自己肯定しているキャラクターだったのです。ここでいう救済には二種類あります。刹那的な思い出と、持続的な支援です。思い出ひとつで生きてゆける人間と支援なくして生きてゆけない人間には根本的な違いがあります。ここで詳しく語ることはしませんが、シャットは前者として描かれたわけです。そして琴爪ゆかりは、それさえも超越したキャラクターとして描かれました。それが25話では、実は彼女は後者の人間であった、ということになるわけです。

「完璧」というものについては視聴後に考察していました。しかしこれまで、彼女がジュリオやキラ星シエルの一件について心を揺らしている描写はありませんでした。それを思うと、やはりテクストの不足を感じます。

完璧であることと彼女の自己肯定の間に結びつきがあったことは否定できません。しかし16話の彼女は、「完璧を目指す自分」を含めて自己肯定しているとわたしは感じていました。だからやはり、25話で彼女の自己肯定が揺らいでいる原因としては弱いと思います。

 

 

これは卑怯な語り口なのでわたし自身も避けたいのですが、そもそもプリキュアとは子供たちのロールモデルになりうる存在なのだと思っています。琴爪ゆかりの生き方はわたしのロールモデルでした。25話では、彼女のロールモデルとしての姿が裏切られたわけです。これはわたしの感情を抜きにしても悪手だったのではないか、とひっそり思っています。プリキュアを語る上で子供たちの存在を持ち出すことは本意ではないので、この話はここで終わりです。

 

描かれなかった部分に思いを巡らせて好意的に解釈したり、琴爪ゆかりは実はすべて意図的にやっていたのではないかと解釈したりする試みは、よいことだと思います。ただ、「解釈の余地がある」ということと「解釈に困る」ということはまったく異なります。25話は「どう受け止めてよいのかわからない」という後者であって、「琴爪ゆかりという女の底の知れなさを楽しめる話」ではないと感じました。ストレートな話としてもどんでん返しの話としても、テクストの提示が不十分だと思います。25話に到るまで、そもそもなんらかの解釈に到れる程のテクストが存在していないのではないかと、わたしの読解の限りでは思っています。

わたし自身もうかれこれ半年以上剣城あきらと琴爪ゆかりのカップリングを推してきた人間なので、「琴爪ゆかりは実は剣城あきらの愛を手に入れるためにすべて意図的に演技をしていた」と解釈してしまえたらどれほど幸福だろうと思うのですが、「演技をしているとしか思えない琴爪ゆかり」はいても「演技をしていることがわかる描写」が存在しているとは思えなくて苦しんでいます。最後の微笑に思うところはあれども、それを根拠として扱えるほど欲望一辺倒な人間にはなれないのです。

小声での発言ですが、25話に納得できるということは、自分が元々持っていた文脈に彼女を寄せているということなのだと思います。もちろんわたしもまたすくなからずそれをやっていますし、それをまったくせずに解釈することは不可能です。それでも、製作者はある一定の範囲の解釈に受け取り手が到れるだけのテクストを提示することが望ましいと考えます。25話の納得に求められるのは、テクストに基づいた解釈ではなく、飛躍した妄想だと思います。25話ははじまったその瞬間から既に、これまで提示されてきたテクストから跳躍していました。わたしはその点に不満を抱いています。

 

25話で描かれた琴爪ゆかりがわたしの期待から乖離していたことは、あくまでも不満に過ぎません。しかし、テクスト不足の指摘は批判だと考えています。不満は不満ですし、批判は批判です。そして上述したとおり、わたしにはその表明が許されています。

 

 

「琴爪ゆかりが実はそういうキャラクターだった」ということは、『愛とときめきのマカロナージュ』からしても、もうそういうことなのでしょう。これについては、開示手法の問題を批判こそすれもう何も言えやしません。ギャップそのものは単なる不満でしかありませんので、批判しようとは思いません。率直な感想としては「詐欺にあった」といったところですが、この話はもうこれ以上しません。剣城あきらと琴爪ゆかりの関係の話をします。

 

散々言いましたが、琴爪ゆかりが内々にそういう心情を抱えていること自体に不満があるわけではないのです。ただ、彼女はそれを他者に開示しない人間なのだと思っていました。それこそデザトリアン(『ハートキャッチプリキュア!』)にでもならない限り、彼女のそんな内心は誰にも知られることはないと思っていた、というか、信じていたのです。

 

16話では「ジュリオを陥れるための嘘」をエクスキューズとして彼女の心情が語られます。琴爪ゆかりは、心情が他者(視聴者)に開示されるためになんらかのエクスキューズが必要なキャラクターなのだと思います。彼女は自己分析に長けていて、自分の煩悶や寂寞の正体とそれらが何に起因するものなのかを理解しています。本心を道具として利用することは、自己分析と自己開示のコントロールができなければ困難なことでしょう。それを16話の彼女はやってのけたのです。

ところが25話にはそのエクスキューズはありません。彼女にとって剣城あきらがそこまでの存在であると解釈できるような描写を、わたしは本編内に見いだせてはいませんでした。10話でファーストネームを呼ぶようになり、16話では「好きってどういうものかしら」とこぼしてみせたりしたものの、それだけです。わたしはアバンの時点で違和を覚えていました。画面の端々で並んでいることはありましたが、彼女たちの関係がアバンの状態に進展するまでの話が、そもそも必要だったのではないでしょうか。琴爪ゆかりの執着自体、あまりにも唐突に思えたのです。

 

 

最後に、わたしのわがままにすぎないことを書きます。ですがほんとうは、これがわがままではなければいいのに、と思っています(わがまま)。

わたしは旧アニメ版『美少女戦士セーラームーン』シリーズの「百合界のカリスマ」の異名を持つセーラーウラヌスセーラーネプチューンが好きです。彼女たちはひじょうにアバンギャルドな存在でした。決して見た目ばかりの王子様とお姫様では決してなく、むしろそれを裏切ることで深みを増してゆくキャラクターでした。このふたりについては106話『運命のきずな! ウラヌスの遠い日』と110話『ウラヌス達の死? タリスマン出現』を観てくださればおおよそわかると思います(マーケティング)。

 

25話は率直に言って「古典」だと思います。キュアショコラもキュアマカロンも魅力的で新しいキャラクターだと思っていました。王子様的な風貌を持ちながらも男女のジェンダー観に囚われず、ただ自分の望む格好で自分の望む母性愛的な振る舞いをする剣城あきらと、なんでもできて世界に退屈しているけれど、宇佐美いちかと出会い「好き」とはなんなのかを考えるようになる琴爪ゆかり。ところが25話からは、そんな彼女たちが王子様とお姫様という古典中の古典――それも今日日ディズニーやプリキュアシリーズで否定されて久しい――に落とし込まれているような印象を受けました。それだけでなく、王子様のコミカルさも一歩間違えば(あるいはもう間違えているのかもしれない)一昔前の「バカ外人」じみているように思えます。

わたしはプリキュアに対してアバンギャルドを求めていました。プリキュアは子供たちをメインターゲットとする作品です。プリキュアに限らず、幼少期に触れる創作物は未来を創る子供たちの価値観形成に大きく関わるものだと思います。現代、望ましく先進的な教育に出会えるかは運です。しかしテレビがあればプリキュアは観られる。わたしはプリキュアにそういったものを期待していました。

 

セーラームーンは、特にジェンダー的な部分においてひじょうにアバンギャルドな価値観を持っていました。今なお永遠のアバンギャルドだとさえ思っています。しかしセーラームーンには、いい加減その座を降りてほしいのです。作品の持つ社会的魅力が劣化しないのは異常です。社会の方が作品を追い抜かしてゆくべきでしょう。

もちろんプリキュアも、これまでたくさんのアバンギャルドな価値観を示してきました。女性の活躍は言わずもがな、『Go! プリンセスプリキュア』のシャットは中性的な格好と声で、誰もその性別を問題にしませんし、『魔法つかいプリキュア!』のフランソワは一見すると女性的ですが声は男性声優が担当していて、MtFトランスや異性装者なのだろうかと考えさせられます。同作のプリキュア三人は、父母と子供の古典的家族像に囚われず心のつながりに重きを置いて「家族」として描かれました。

 

25話が、これまで既に打ち出していた新しさを否定する形でキャラクターに古典的魅力を付加してきたのは、かなり苦しいものがありました。もちろん、それが古典的であれども一定の人々にとってはひとつの魅力であることは理解できますが。

 

 

わたしは、「いかにして好意的に解釈し整合性を見いだして納得するか」に取り組んでいる人々に敬意を払います。その上で、それだけが優れた視聴態度だとは思いません。そういう試みで救われる人間もいれば、わたしのような人間もいることでしょう。わたしはわたしなりに真摯にこの作品と向き合っているつもりです。むしろこの記事はわたしの捧げられる最大限の誠実だと言ってもいいくらいです。

「そんなに苦しいなら視聴をやめればいい」とか「嫌なら二次創作でもしろよ」とかそういうことではありません。わたしは苦しみつつも楽しんでいますし、琴爪ゆかりのキャラクター性については既に受容しています。プリキュアシリーズが好きだし、『キラキラ☆プリキュアアラモード』が好きです。不慮の事故や恨みのあるフォロワーに殺されたりしない限りは、最終回まで見届けることでしょう。

 

わたしは琴爪ゆかり/キュアマカロンを愛していました。そしてわたしは、今も彼女を愛しているからこそ長々とこのような記事を書いたのでしょう。わたしは保身でも尊重でもなく、彼女への愛でこの記事を結びたい。愛しています。これまでの彼女も、きっとこれからの彼女も。