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小夜倉庫

似たり寄ったりなことを百万回繰り返しても足りない

『ユーリ!!! on ICE』と「愛の再定義」

※この記事を書いた段階では、筆者は6話までの視聴でした。

 

 

 

「(略)けど、ヴィクトルコーチが現れて、ぼくの見ていた世界が一変しました。ぼくの愛。それはわかりやすい愛や恋ではなくて、ヴィクトルとの絆や、家族や、地元に対する微妙な気持ち。ようやく、自分の周りにある愛のようなものに気づくことができました。はじめて自分から繋ぎ止めたいと思った人、それがヴィクトルです。その感情に名前はないけど、あえて愛と呼ぶことにしました」

 

勝生勇利 『ユーリ!!! on ICE』 第5滑走 より

 

『ユーリ!!! on ICE』は「『愛』の再定義」を試みるアニメなのだとわたしは思う。

 

 

これは、要は「辞典内容の改訂」である。昨今、国語辞典における恋愛絡みの言葉の説明に「男女の〜」という表現を用いるのをやめようという動きがある。これはとてもよいことだが、辞典に書かれた定義が変わっても、人々の認識が変わらなければ、世界は変わらない。

『ユーリ』は世界を変えようとするアニメだ。

 

ボーイズラブ的な描写や卓越したスケート作画で一躍話題となった『ユーリ』だが、『ユーリ』で描かれる人物の関係性は、社会的な手垢に塗れた「恋愛」という言葉の枠組みに留まることをしない。むしろその枠組みを外そうとしている。

 

「恋愛」や「キス」(あるいはここに「セックス」を足してもいいだろう)に付随する「本来は男女のもの」「性的欲求を孕むもの」「やがては結婚するふたりがするもの」などの考えは、どれもこれも社会的な手垢のようなものに過ぎない。特に日本では、婚姻が子供を持つことと密接に結びついているから、そういう考えが生じやすい。

 

「友愛」と「恋愛」を区別するのは一体なんだろう。

ひとりだけに特別な思いを向けるのが「恋愛」? じゃあそのひとりを特別に思ったら、そのひとと結婚しなくてはならないの? 誰かを特別に大切に思う気持ちに、婚姻関係や肉体関係への欲求が必ずしも付随するの?

 

よくよく考えれば、これはとても奇妙な話ではないだろうか。

人間の感情って、もっと自由なんじゃないだろうか。その自由な感情を、そのまま語れる言葉があってもいいんじゃないだろうか。
その人を好きだと思ったら「だいすき」と言えばいいし、その人を特別だと感じたのなら「愛してる」と言えばいいし、その人にキスしたいと感じて、相手がそれを受け容れてくれるのなら、キスをすればいいはずだ。

そのコミュニケーションは、本来ならば個人と個人の間のものであるはずだが、そこに当然のように社会的慣習が介入することが多いのが現状である。

もちろん、ステレオタイプを悪だとするわけではない。ただ、ステレオタイプから一歩外れると、驚く程の不寛容が待っていることがあるのは事実だろう。

 

勇利は「ぼくの愛」を語る。
あらゆる社会的な手垢をとっぱらって、もっと広く、もっと自由に、自分の抱いた感情を、社会的な枠組みに無理矢理おさめたりせず、平らでなんの仕切りもない氷上で、ありのままに表現するのだ。
滑ることに言葉はいらない。それでも彼は、その感情を「愛」と呼んだ。また、これまで自分を支えてくれた人々の感情も同じく「愛」だと語った。ぼくは「愛」を滑るのだと宣言してみせた。

彼は「愛」という言葉を、とても広く、自由な言葉に、拡張して再定義しようとしている。

 

『ユーリ!!! on ICE』の『ICE』は、きっと『愛す』なのだろうと思う。確かに氷上は、新しく素晴らしいアバンギャルドな「愛」を語るのに、この上なく相応しい。

 

 

 

ところで、こういった「愛の再定義」に試みる作品は、わたしの知る限りでも『ユーリ』だけではない。

 

2015年1月から放送された幾原邦彦監督の『ユリ熊嵐』も、「愛の再定義」の話なのだと思う。

 


※ここから先『ユリ熊嵐』のネタバレに若干触れていますがネタバレ程度で霞む作品ではないので気になった人は『ユリ熊嵐』を観ろ

 

TVアニメ「ユリ熊嵐」公式サイト
http://www.yurikuma.jp/

 

ここで触れておきたいのは、『ユーリ』は男性の世界、『ユリ熊嵐』は女性の世界にそれぞれスポットが当たっており、異性が排除されているという点である。

「愛の再定義」で男女恋愛を扱うことは困難である。もちろん、拡張された「愛」の中には、恋愛し、キスやセックスをし、結婚し、子供を設ける男女の「愛」もある(男女の「愛」が必ずしもそうだというわけではない)。けれどそれを描いても、それはきっと「恋愛ドラマ」になってしまう。「愛の拡張」を訴えることは難しい。

我々は、男女の「愛」のドラマを、容易に「恋愛」に落とし込んで受け取ってしまう。それは我々の持つ色眼鏡でありノイズだ。そこに立ち向かおうとするとき、同性間の関係性は男女のそれよりも幾分かたやすい。


また、『ユリ熊嵐』は「断絶の壁」や「約束のキス」、「スキ」など、作中独自の用語を多用した世界観を採用していた。愛を告げる言葉までもが、「スキ」という作中用語だったのだ。そして、「スキ」な人のことは一貫して「友だち」と表現されている(公式サイト内では「友だちであり恋人」などの表現もある)。

つまり、『ユリ熊嵐』は「大スキ」な「友だち」と「約束のキス」をするという、作品のキモをすべて作中用語で語れる作品だったのだ。

「ヒトとクマの間には断絶の壁があるから友だちにはなれない」というファンタジックな世界観の中で、「断絶をこえてヒトとクマが約束のキスをする」というストーリー。ファンタジックであるということは、寓意性が高いということでもある。視聴者は各々、自らの立場に置き換えて救われたような気持ちになったり、あるいはそのまま字面どおりに受け取り感動したりしただろう。

ユリ熊嵐』は、きっとそこを狙った作品だったのだろうと思う。この作品に救済された人間はきっとたくさんいるし、エンターテイメントとして楽しんだ人間もまたたくさんいることだろう。

 

その一方で、『ユーリ』は極めてリアルな、我々と地続きの世界を描いている。ちなみに筆者も、エンディングで描かれた場所に馴染みの土地があったため、めっちゃワクワクした。InstagramなどのSNSを積極的に描写していることもそれを強く感じさせる。
『ユーリ』は真正面から「愛」という言葉に向き合ったのだ。我々が平素から使う「愛」という言葉に、疑問を投げかけようとしている。


ユリ熊嵐』は一部の人々(後述する「自由の拡張を求める人々」)への救済だったし、「わたしたちのスキが、すこしずつ広がって、いつか世界を変えて、断絶の壁をなくせるときが来るかもしれない」という、希望を得られる話だった。
その点、『ユーリ』は「愛の再定義」を堂々と大衆に訴えかける作品である。時代の前進を感じずにはいられない。

 

ところで。

そもそもかつては「女の子が好きな男の子と結婚できること」自体が革命的なことだった。娘の結婚相手を家が決めるのは当たり前のことだったからだ。
ところが今では「恋愛・結婚しない自由」が声高に叫ばれ、「同性愛の自由」も主張されている。そしてこれからは「あらゆるカテゴライズをとっぱらった、すべての愛の自由」へと向かっていくのだろう。
恋愛や結婚をしない自由も、同性愛の自由も、決して白馬に乗った王子さまと結ばれるお姫さまを否定したりはしない。もちろんお姫さまはただ待っているだけではいけないし、自ら王子さまを探しに行くだけのタフネスが求められる世の中だが、それでも新時代の自由は、それを否定したりはしない。ただ「自由を拡張する」だけだ。(このへんについてはプリキュアシリーズやディズニープリンセスによく表れているがここでは語らない)

 

自由とは、時代とともに拡張されるものなのだ。我々は自由だが、実はまだ自由ではない。未来には我々のまだ手にしていない自由がある。
その自由を必要としない人間、今我々が手にしている自由だけで満足に幸福でいられる人間は、しばしば自由を拡張しようとする人々に無理解だろう。けれど、それでも自由は拡張されてきたのだ。

もうすこし直接的な言い方をすると、この記事が何をいいたいのかさっぱりわからない人もたくさんいるだろうと思う。「愛の再定義」を必要としない人は、それを求める人の主張がわからなくても仕方がない。しかし、どうかそれを否定しないでほしいのだ。自由を拡張することは、今ある何かを侵害することではきっとないはずだからだ。

 

また、ここでは筆者の「愛の再定義」「自由の拡張」を求める立場から、同性愛の話はしなかった。同性間の関係は、より自由な「愛」を描くことを容易にするが、決して同性間(並びに異性間)の「恋愛」「性愛」を否定する意図はまったくない。わたしの求める「拡張された自由」には、当然、恋愛や性愛もひとつの愛の形として尊重されている。

 

『ユーリ!!! on ICE』は、先進的かつ革命的で、未来の自由を渇望する人々を応援するアニメであると信じている。