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小夜倉庫

似たり寄ったりなことを百万回繰り返しても足りない

マトリサイド未満のシャットがプリキュアに救われるということ

漫画・アニメ

 

マトリサイド - Matricide
【名】
《殺人》母親殺し
発音mǽtrisàid、分節mat・ri・cide


この文章は、製作者の意図を探ることを目的としたものではありません。ともすれば偏見・色眼鏡とさえ呼べる、一個人の感想です。

 

 

  * * *

 

『Go! プリンセスプリキュア』45話『 伝えたい想い!みなみの夢よ大海原へ!』にて、わたしにとってはひじょうに衝撃的な展開があった。

作中でキュアマーメイドに変身する海藤みなみは、序盤では、海藤家の仕事を家族と共にし、社会に貢献したいと考えていた。ところが36話『波立つ心…!みなみの守りたいもの!』で、海の生き物の獣医である北風あすかと出会い、心を揺さぶられる。やがて44話で、海を守りたいという想いに素直になり、夢が変わること、新たな夢を選択することを受け容れる。そして45話で、多分に恐れながらも勇気を出して両親に打ち明けるのだ。
このとき両親はそれを笑顔で受け容れる。母親は「あなたは優しい子」と言い、父親は「ブラボー!(言い方が面白い)」と新たな夢を見つけたみなみを祝福する。
みなみの夢は、みなみ自身は、家族から承認されたのだ。

 

敵組織ディスダーク
・母親ディスピア(いちばん偉い)
・長男クローズ(一度死んで復活したらなんか偉そうになってた)(シャットの知らないところでいい感じの作戦を立てているディスピアにとっての「いい子」)
 ・ストップ(復活したクローズがなんか連れてきた)
 ・フリーズ(〃)
・次男シャット(毎回プリキュアにやられて帰るナルシスト)(ディスピアにとっての「悪い子」)
・三男ロック(母をも超えようとする野心家)

 

さて、ここでディスダークの話をしよう。
シャットは33話で、ミス・シャムールにメイクの楽しさを教わっている。

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毎回毎回プリキュアにやられて退散するシャットは悩んでいた。この回でも、メイクに勤しんでいたところを無理矢理クローズに追いやられ仕方なく出撃してきたのだ。
そんな彼にミス・シャムールはメイクの拙さを指摘し(そりゃ途中で来たんだから顔半分はすっぴんだ)、彼はメイクの楽しさに目覚める。ミス・シャムールのお墨付きをもらった彼は、「わたしはやればできるのだ!」と意気揚々とディスダークへ撤退していく(かわいい)。

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 それからの45話だ。

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 …………(涙を拭う)

 

…………彼はわたしだ………………(天を仰ぐ)

 

ここまでの展開をマトリサイドの文脈で読み解いていこう。

45話には対比構造がある。

「両親から承認されるみなみ」と「母親の承認を得られないシャット」
「夢の内容を問われることなく(両親の価値観に基づく判断がなされないままに、みなみにとってそれがよいものであるならばと)受容されるみなみ」と「己にとって価値があると感じたものを母親に否定されるシャット」
「みなみがみなみでありさえすればよいみなみの両親」と「思い通りに育ってくれなくては失敗であると看做すディスピア」
「物語の途中で得た夢を肯定されるみなみ」と「物語の途中で得た夢を否定されるシャット」
彼らはどこまでも対照的なのだ。

 

シャットはディスピアの価値観の元で生きてきた。そうでなくては生きていけない。

ところが物語の中で、家庭の外界にて新たな価値観を手に入れる。うつくしさの探求がそれである。

シャットは母親の価値観の元ではクローズよりも不出来な「悪い子」だった。なぜなら彼は、人々を絶望させることも、プリキュアを倒すこともできなかったからだ。
しかしうつくしさの探求においては違う。彼は彼なりに模索し、彼なりのうつくしさを目指し、そうしてシャムールに承認されるのだ。彼自身の努力を!
「わたしはやればできるのだ!」
ディスピアの価値観の元で生き、その中で上手くいかず悩んでいた彼が、それに囚われない価値基準を手に入れたのだ。これこそまさに彼のアイデンティティと自己肯定感の萌芽だ。彼は自己を表現し他人に承認される方法がひとつではないと知ったのだ。彼に革命が起きたと言ってもいいだろう。卵の殻は破られ、世界が拡張されたのだ。

おそらくは彼なりに、このあとも様々な美の模索を繰り返したのだろう。彼はそれをディスピアも褒めてくれると考えたのだろうか。上の画像を見てほしい。彼の笑顔を! なんて哀しく愛おしいんだ……その日のできごとを母親に報告する小児そのものではないか……。

シャムールに承認された彼は、母親からも承認されようとする。わたしはプリキュアを倒すことはできないけれど、こんなにもうつくしいんだ、だから褒めて!
ところがそんな彼に向けられた言葉はなんだ。
「おまえは失敗作だ」
これを呪いの言葉と言わずしてなんというのか!
ディスピアはシャットの新たな価値観を許容することはなかった。シャットは母親から否定されたのだ。自分で見出した生き方を否定され、母親の狭窄した価値観の元でのみ生きろと、あろうことか再び矯正されたのだ。

 

わたしが言いたいのは、シャットに感情移入する人間はおそらくたくさんいるということだ。
ひとつ思い出がある。まあなんやかんやあってわたしが母から言われた言葉に「あなたが勉強できるのだけが生き甲斐だったのに」というものがある。わたしが母に対して抱いている思いはあるが、それについてここで語ることはしない。いや、ある意味ではダダ漏れに語っているのだが。
わたしは自分が特別な人間だとは思っていない。家庭内に不和のある人間などたくさんいるだろうし、たとえ家族のことを愛していても、一度や二度は親の言葉で傷ついたことがある人など世の大半なのではないだろうか。そういう人間の胸に、シャットという存在が訴えるものがあると、わたしは思う。

 

例を挙げて説明する。
上記のシャットとディスピアのやりとりは、つまりはこういうことなのだ。

 

虫取り好きの少年「ママ! カブトムシとれた!」
ママ「あらいやだ、そんな汚いものを拾って! 捨てて手を洗ってらっしゃい!」

 

ありふれていると、わたしは思う。大人はしばしば子供が価値を見出すものを平気で蔑ろにする。もちろんこれは親子関係に限らずあらゆる対人関係においても大切なことだ。

 

ところで、わたしが言われた「あなたが勉強できるのだけが生き甲斐だったのに」という言葉、突き詰めれば「おまえは失敗作だ」とまったく同質のものではないだろうか? わたしはそう感じた。
とどのつまり、「おまえはわたしの価値観で認められる人間ではないよ。わたしはおまえをいい子だと評価することはできないよ」ということである。そして「いい子だと褒めてほしければ、わたしに承認されたければ、わたしの望む子になりなさい」ということである。
シャットがディスピアに言われたのと同じことを、ありとあらゆる形で言われた子供は、テレビの前に確実に存在するのだ。

 

子供が親の庇護なしに生きていくことは困難を極める。シャットはディスピアの望み通りのいい子にならなければ命がない。これは比喩的と言って差し支えないだろう。いい子でいなければ生きていけない子供なんて、世の中に掃いて捨てるほどいるのだ。捨てられたくないから、いい子になろうと努力する。その悲しい努力は、鳥籠の中の鳥が自らの風切羽を落としているようなものだ。

 

シャットはマトリサイドの悲しみを体現してあまりある。しかし彼はマトリサイドですらない。マトリサイド未満なのだ。
「親を殺す」という選択肢を持てないうちは地獄である。過激な言葉だがそうなのだ。乱暴に言い換えるなら「親離れ」と言ってもいい。親の価値観から解放されるのは困難なことであるし、親の傀儡であった時代を外界で獲得したアイデンティティでもって振り返るのはとてもつらいことだ。

この段階のシャットはまさにその状態にある。プリキュアが未来のプリンセスであるならば、シャットは未来のマトリサイドだ。彼は親殺しの概念を知ればマトリサイドになるだけの素質がある。
しかしわたしは、彼にマトリサイドになってほしくないのだ。
なぜならこの物語は、他でもないプリキュアだからである。

 

プリキュアはすごい。プリキュアは常に時代の先を行く。ジェンダーフリー的なところがわかりやすいだろう。その点においては日本のディズニーだと思っている。悪いオタクらしく『少女革命ウテナ』と絡めて語ってもいいだろうがここではそれはしない。わたしのツイートでも遡ってください。
プリキュアはやさしい世界だ。そして同時にアバンギャルドだ。プリキュアを見ていると、世界がやさしい方向へ向かっていくのではないかと思える。

そんな「アバンギャルドでやさしい世界」であるプリキュアでシャットがもしも死んでしまったら、それは何を意味するだろうか。また、シャットがプリキュアに救われたら、それは何を意味するだろうか。

 

前者はわたしにとっては絶望だ。マトリサイドは救われないということになる。親の傀儡のままに死んでいく。大袈裟だと思うかもしれないが、それが日本社会の未来だと言っても過言ではないのだ。
後者はわたしにとっては希望だ。マトリサイドはプリキュアによって救われる。傀儡から人間になれる。未来に希望を見出すことができる。

 

ここでひとつアニメージュの記事から引用しよう。ディスダークについて、シリーズ構成の田中仁さんへのインタビューだ。

 

――今作の敵は、全体的にシリアスな感じがします。
田中「構図として、シンプルな悪にしたいという狙いからです。ディスピアとクローズ、シャット、ロックの三銃士は、一種の「悪のファミリー」みたいなもので、はるかの春野家みたいな幸せな家族と対比しています。」
――すると、三銃士は三兄弟のような感じですか?
田中「クローズがいわば長男になります。ディスピアの絶望を一番体現しようとしていた忠実な存在なので、第11話で戦って消滅したのは自然な流れでした。シャットは立場的には次男です。クローズと同じくらいの能力を持ちながら、失態を重ね続けて居場所がなくなりつつあります。三男的なロックは三銃士の中で最強という設定です。(以下略)」


………………や、やばくない? しゅごいよ……………………?

 

何が言いたいかというと、上記のわたしの絶望はまさにこれなのだ。
シャットが死ぬということは、「悪のファミリー」「不幸せな家族」に生まれた子供は幸せになれずに死んでいくしかないということだからだ。この絶望感がお分かりいただけるだろうか。

 

  * * *

 

……と、そんな懸念を抱えながら迎えた46話『美しい…!?さすらうシャットと雪の城!』

 

…………つらかった…………(感想)

 

いや、シャットが最上の結末を迎えたことは疑いようもない。
彼は消滅などしなかったし、プリキュアは彼を救いたいと思った。そして浄化されそなたでござった化することもなかった。
これは至上だ。なぜなら我々は浄化などという便利な機構が存在する世界に生きていないからだ。シャットが浄化され「善人」になるのは本質的な救いではない。
完全に余談だが、シャットがそなござしたらわたしはキレていただろう。トワは本来は望ましい家庭に生まれていた子だが、シャットまでトワと同じ道をたどってほしくはない。彼にはそういう宿命の元に生まれた者であってほしい。

 

46話もまた、45話同様対比の効いた回だった。

 

春野はるかたちは家族と過ごす楽しい冬休みの予定を語る。
その一方でシャットはひとり流離っていた。

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街をさ迷うシャット。彼を見た人々は自然に彼を避けてゆく。少年は母親の手をひかれ彼から離される。「シッ、見ちゃいけません!」というやつだ。
少年は出生家族の庇護に甘んじる存在だ。出生家族から承認されず否定されたシャットは、出生家族の庇護から弾かれる存在になってしまっているのだ。なんて残酷なシーンなんだ……そりゃ鳥以下かとも思うよな……

 

帰る家があるはるかたちと、帰る家のないシャット。シャットは「すべてを失った」と言っていた。彼にとっては、家こそがすべてだったのだ。

 

彼女らの街に雪が降る。
はるかたちは雪遊びをはじめ、雪だるまや雪うさぎをつくる。そんな中、故郷の復活を願う紅城トワは、雪で故郷のホープキングダム城をつくるという。プリキュアやゆいちゃんに留まらず、学園のみんなが彼女に協力し、とんでもなく立派なお城ができあがる。

 

全寮制のノーブル学園の生徒達は擬似家族のようなものだと言えるだろう。出生家族でも創設家族でもない。夢へ向かって歩み続ける彼女らが人生のうち刹那交わるモラトリアム・ファミリーだ。そんな彼女らがつくりあげる「城」。これは「家」であり「国」だ。それをつくる行為は、幸福な創設家族ごっこなのだ。出生家族で健全な愛情を享受した彼女らは、次の家庭創設へのステップを順調に進んでいる。
そしてその頃も、シャットはひとりさ迷っているのだ。

 

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家庭から捨てられた悪い子・シャットに、幸福な家庭の象徴たる城は一体どう映っただろう。

トワにはかつて、ディスピアに洗脳されプリンセス・トワイライトと名乗っていた時期があった。彼女はディスピアに忠実ないい子だった。ディスピアの愛を一身に受け、ディスピアの娘であることを誇りに思い、「気高く、尊く、麗しく」あり、シャットはそんな彼女をうつくしいと感じていた。

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やがてトワイライトはなんやかんやあった末にキュアスカーレットに変身し紅城トワとして生きることになる。彼女は実は、ホープキングダムのプリンセスだったのだ。

トワはかつてディスピアに愛された存在である。シャットが喉から手が出るほど欲する彼女の寵愛を惜しまれもせず注がれた存在だ。にも関わらず彼女はそれを捨てプリキュアになり、兄・カナタと仲良く過ごし、あまつさえノーブル学園にホープキングダム城をつくっていた!

シャットからしてみれば、トワはどれほど贅沢な存在だろう。
いや、そもそもシャットはクローズ殉職時も彼がいなくなったことをさみしく感じていたし、トワイライトが消失したことも悲しく思っていた。その一方でキュアスカーレットにもうつくしさを見出していたのだからつくづくサイコーな男だ。
そんな彼が、もう外界に美しさを見出す余裕を完全に失っているのだ。美しいのは自分だけだとナルシスティックに考える。

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美の探求は母親から切り捨てられた概念だ。そして彼自身さえ家庭から切り捨てられた存在だ。
彼はもう、自暴自棄な獣になってしまったのだ。

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持論だが、わたしは、親の傀儡がひとりの人間になろうとするとき、獣という過程を経ることがあると思う。
出生家庭のコンテクストと社会・世界のコンテクストはしばしば異なる。親のコンテクストから外界のコンテクストに出ていこうとするとき、しばしば子供は親のコンテクストでは理解不能な存在になる。しかしそれは外界のコンテクストで生きていくためには必要な変化である。傀儡が人間になるということは、親にとっては獣になるということなのだ。
だからわたしにとって、もちろんクローズだってロックだってしたことだが、彼がここで獣になるのはとてもつらかった。
彼の獣の暴力性は、母親に対してではなく、プリキュアに対してでもなく、世界に向けられてしまった。
もしも彼が「わたしは美を追求したいからもうディスピアとはさようならだ」となっていれば、ディスピアに立ち向かっただろう。しかし彼はそうならなかった。母から与えられた最後のチャンスに挑み、プリキュアを倒せずあえなく敗北。彼にはもう何も残されていない。
「わたしはすべてを失った」
ほんとうにそのおりなのだ。彼はマトリサイドになれなかったのだ。

 

世界を憎み妬み嫉み、うつくしいのは自分だけだと考えるシャットに、キュアマーメイドは氷属性攻撃を鏡にして(すごい)シャットの顔を彼自身に見せる。

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つらい……つらいんだ、ほんとうに……

 

「うるさい、黙れ! ロックに見下され、クローズに見下され、ディスピアさまにも見捨てられ、残されたのは自分のみ、信じられるのはもう、このわたしのみだ!」
年間とおして彼の口癖は「のみ」だった。それがここでこういう使い方をされるのはとても悲しい……。

 

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決め技で獣化を解き彼のパッツン前髪(衝撃)を露にしたプリキュアたち。雪上に倒れるシャットにキュアスカーレットは歩み寄る。

 

「トワイライトも孤独で、人のことなど考えない人間でしたわ。でも……今のわたくしは違います。あたたかくてたいせつなものをたくさんいただきましたから。それを守るためにつよくやさしくある姿……それがうつくしさだと、今はそう思っています。変わりましょう、シャット。わたくしと一緒に」

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ここでシャット、差し伸べられたキュアスカーレットの手を弾く!

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そして去る!

 

プリキュアの言っていることは正しい。彼のしていることは
八つ当たりだ。その通り。しかし赤子に正義を説くのは果たして正しいことだろうか?


46話の素晴らしい点に、プリキュアがシャットのことを理解できているわけではないというところがある。あくまでわたしの解釈だが、シャットの苦悩の本質とプリキュアからかけられる言葉はずれている。しかしそこに、リアリティがある。とても丁寧な脚本だと感じた。

 

トワイライトが孤独? あんなに母親から愛されていたのに!
しかしトワはもう既に、ディスピアの愛が望ましい形のものではないことを知っているのだ。ディスピアの愛に縋ることは、実は孤独なことなのだ。
しかしシャットはそんなことを知るよしもない。
それに、元来トワはホープキングダムで望ましい愛を受けて育った人間だ。それを思い出すことによって、彼女はディスピアの呪縛から逃れることができたのだ。だから、彼女は根本がシャットとは異なるのだ。

 

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トワの手を弾いたシャットはシャムールのマフラーは受け取った。トワの話が心に響いたからこそなのか、そうでないのかはわからない。けれどわたしは、彼が求めているのが母性だからなのではないかと思う。一度は彼を承認してくれたシャムールのマフラーだから、受け取ることができたのではないか。

 

重ねていうが、プリキュアはきっと社会的に正しい。けれど、正しさは彼にはまだ早いのだ。離乳食しか食べられない子供には、いくら栄養バランスが素晴らしかろうと普通の食事を与えたところで食べることは困難だ。それでも彼はきっとそれを食べなくてはならないのだろう。わたしにもわからない。けれど、たとえ離乳食を与えられなかったとしても、いつかは普通の食事ができるようにならなくてはならないのだ。
シャットはシャムールのマフラーを巻いて、今懸命に咀嚼している。数段飛ばしの階段をどうにかよじ登っている。

 

キュアフローラは彼に「うつくしくない」と言った。これはディスピアの言葉とは決定的に異なる。うつくしさの価値を認めない彼女とは違い、うつくしくないという評価は既にうつくしさを探求すること自体を認めているのだ。シャットはきっと、そのことに気付けると信じている。

 

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ところで、完成した城を見たトワはこう言っている。
「わたくしひとりでは、こうはいきませんでしたわ……たくさんのお友達のおかげです」


子供は親を選べない。これまでの物語で、はるかたちの家庭とディスダークとで悲しいほどの二極構造が描かれている。夢に向かってひたむきに努力する彼女たちの支えに親という存在があることを、プリンセスプリキュアは明確に描いてきた。はるかは特に、プリンセスになりたいという夢を笑って肯定してくれた両親がいなければ、きっと今のはるかはいなかっただろうと思える。

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子供は友達を選べる。そのはずだ。しかしシャットが生まれたのは、「友達を選ぶことを許さない」家庭だった。これは生まれたときから袋小路にいるようなものだ。
ディスダークという家庭と別れたトワは、たくさんの友達に囲まれている。きっとシャットにもそれができると、わたしは信じている。
友達がいれば、きっと創設家族ごっこができて、やがてごっこではない創設家族にも出会える。家庭至上主義というわけではない。もちろん創設家族を作らなくたっていい。けれどきっともっと自由になれる。己の価値を己に証明できる。自己肯定できない呪われた人生の軌道から脱却できる。
人間が自分の肉体を視認するのに鏡が必要であるように、自分を肯定するためには、最初のステップとして親からの肯定が必要なのだ。それを得られなかったら、承認を外界に求めるしかない。
どうかシャットに、友達ができますように。

 

シャットはきっと救われた。彼が彼自身の悲しみを咀嚼し、マトリサイドになることなく、革命を起こすことを願っている。
シャットという生まれながらのディスアドバンテージを背負ったマトリサイド予備軍がこのような形で救済を受けたことは、わたしにとって希望である。

 

46話は雪の降る日の話だ。雪は誰にも平等に降り注ぐ。富める者にも貧しい者にも――なんて言うが、それはどんな家庭の子供にもまたそうである。
やさしさは不平等なものだろうか。無限に永遠に伝播すれば、いつか平等と言ってもいいくらいに降り注いだりしないだろうか。
プリキュアを観ていると、そんな夢を見たっていい気がする。
プリキュアはシャットのことを理解できはしないだろう。けれど、理解できなくても救済することはできるだろう。

 

(15.12.28.)


  * * *

 

48話『迫る絶望…!絶体絶命のプリンセス!』は正体ばらしや素晴らしい芝居作画など見所がとても多かったが、ここではやはりシャットの話をしよう。

 

戦うプリキュアの様子を密かに窺うシャットは、彼女らのピンチに意を決したように現れる。

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カッコよすぎかよ勘弁してくれ……

 

あろうことか、彼はディスピアの忠実なる息子であるいい子のクローズを殴り飛ばすのだ(しかもこのあと殴り返された)。これは紛れもない克己であり反抗だ。母親に対して闘争を挑んだに等しいし、同時に兄弟を救おうとしている。

 

家庭からの逃走は現実的な手段であるが、家庭への反抗は困難だ。途轍もなくエネルギーを消費する上に、得られるものが見込めないことも多い。
浄化に頼らず極めて現実的な着地を見た46話であったが、ここで彼は現実を超えた(しかし実行可能ではある)行動をとる。この流れはあまりにうつくしい。有り余るカタルシスだ。(実際に彼の出生家族たるディスダークは世界を絶望一色にしようとしているため、逃走が反抗に転じやすい舞台設定はあるにせよだ。寧ろその舞台設定もまたひじょうに優れた演出であると評価できる)

 

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「ディスピアの呪縛から抜け出す」

とんでもない台詞である。ディスピアの愛を、彼は呪縛と言いきったのだ。これのなんと尊いことか! もう言えることは何もない、シャット、がんばったんだなあ……


また48話では、かつてプリキュアに敗れ消失したかに思われた野心家ロックが再び登場する。彼はかつて、ディスピアの言うことをただ聞くだけでは飽き足らず、ディスピアを超えようとしたことがある。ところが、再びディスピアに力を注ぎこまれた彼は「ディスピアさまのために」と繰り返す。
(下画像中段はかつてのロック)

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かつての彼に対するディスピアのコメントはこうだ。

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対して、現在のロックを見たはるかは言う。

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あからさますぎるくらいあからさまなシーンだ。失敗作という言葉はかつてシャットに対しても使われたものである。

 

「失敗作」と「あやつり人形」。これらは対になる言葉だ。
これらは決して同一のものを指す言葉ではない。あやつり人形という言葉はディスピアにとっての「いい子」「成功作」に向けられているのだ。

 

シャットはたくさん考えたであろう。ディスピアとは何か。うつくしさとは何か。生き方とは何か。
彼は決して、プリキュアの味方になったのではない。プリキュアに感化されたのでもないだろう。プリキュアはあくまできっかけに過ぎない。彼は己の人生の在り方を見つめ、結果として今回の件ではプリキュアに与する形をとったのだ。

 

今回の話は、善悪の二項対立だけで捉えたくはない。
つまり、「悪の手下だったシャットが善のプリキュアの味方になった」とか「悪人が善人になった」とか、ただそれだけの話ではないのだと思う。
世界を絶望に落とそうなどと考えている人間はそうそういない。しかし、子供の可能性を閉ざし常に己を正しいと信じるよう誘導し盲目にする母親は、世界中にごまんといる。ディスピアのそういう面に目を向けたとき、この話がとてもありふれたものであると思わされる。

 

また、彼のそれが一般的にいう「反抗期」でないことも明らかだろう。反抗期とは自立心の芽生えであるが、やがては親元に帰ってくることが約束されている。反抗期は「いずれ自分が間違っていたことに気付く」が、彼はちがう。彼は、「母親がうつくしくない」ことに気が付いたのだ。その発見は、外界で得てきた価値観によってなされるのである。

先の話と重なるが、反抗期では出生家庭のコンテクストと社会のコンテクストはほぼ同じで、渦中の青少年はその全体に反発する。しかし彼の場合は違う。出生家庭のコンテクストを捨てることで、社会のコンテクストで生きていけるようになるのだ。

何度でもいうが、彼のような子供は世界中にいる。

 

最終回。絶望のメタファーとして、クローズははるかに肯定される。クローズははるかを絶望させることを諦め、はるかはクローズの存在(絶望)を、夢に向かって歩むプロセスとして受容する。

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 シャットは変化した。変化することによって、母親からの承認を諦め、自己肯定を目指した。

クローズは変わらなかった。しかし、はるかに受け容れられた。そしてクローズは、絶望のメタファーでありながら希望を抱く。この結末は一年間の積み重ねがあってこそだ。

この対比はとても面白い。シャットはどのような思いでクローズを見ただろう。わたしには想像もつかない。

 

シャットはクローズを殴った。彼は三銃士の中で最も弱い。敵わないことはわかりきっている。にも関わらず、殴った。
シャットは兄弟に、自分の選択した道を示した。あそこで彼が「自分はディスピアの呪縛から逃れたのだ」「ディスピアの傀儡はもうやめよう」と主張することには意味がある。
一旦鳥籠の外にでれば、中にいた頃に見えていた世界がいかにちっぽけであったかわかることがある。しかし外の世界の素晴らしさを中の者に説くことは困難だ。それでも彼は、兄弟に新たな視点を与えたかった。彼はずっと、やさしい次男だった。
「変わるぞ! わたしたちも!」
彼らには変わる権利がある。それはうつくしい希望だ。

 

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ハアアアアア〜〜~〜〜〜なにこれ〜〜〜〜〜〜やば、やばいよなあ〜〜〜〜〜〜

 

「意外と」というのがミソだと思う。つまり彼は、ありとあらゆるうつくしさを柔軟に受け入れる土壌を持つことができたのだ。
雪の中、世界のすべてを否定しながらさまよっていた彼が、こんなに変わった! なんてすごいんだ……

 

物語の最後、異世界の間を行き来することは不可能になってしまった。
彼ははるかたちのいる世界に残ることを選ぶ。彼を承認してくれたミス・シャムールがいる世界でも、なによりうつくしく感じているのであろう紅城トワがいる世界でもなく、彼は自らうつくしさを探求するのに最も相応しいであろう世界を選んだ。これは完全な自立だ。

 

プリンセスプリキュアは、夢を追いかける少女たちの物語であった。しかしすこしシャットに目を向ければ、マトリサイド未満の彼が、プリキュアの救済とシャムールの承認をきっかけに、出生家族を脱出し自立するまでの物語でもあった。
プリキュアは数多の夢を持つ人々を救ってきた。彼もその救われた人々のひとりである。そしてプリキュアは、ときにテレビの前の人々すら救ってみせるだろう。

 

重ね重ねわたしが最も訴えたいのは、シャットが世の中にありふれた存在であるということである。ここでマトリサイドという耳慣れぬ言葉を敢えて使ったのは、社会的な手垢のついていない、また反抗期とは明確に性質を異にする言葉を用いることで、シャットという存在に迫っていきたかったからだ。あと単にわたしの拘りという説もある(最有力候補)。


わたしはこの文章が万人に通じるものだとは思わない。けれど、こんな解釈もあるのだと思ってくれたら幸いだし、もしもどこかのマトリサイドに届いたら、こころから嬉しいと思う。

 

どこかのマトリサイドへ。家庭はしばしば地獄のように感じられるかもしれませんが、それは果てのない地獄ではなく、天国へ至るための煉獄なのだと思います。いつか天国で会いましょう。

シャットはわたしのベアトリーチェなのです。

 

纏まりのない話になってしまったが、ここまで読んでくださった方々に感謝を。ありがとうございます。
あなたがうつくしき幸福を獲得することを願っています。

 

(16.02.05.)

追記:16.02.12.加筆修正